2017年12月30日土曜日

【第49回】ロシアに来ることになった経緯

現職のウラル連邦大学の教授職に就いた経緯は少し変わったものでした。一言で言うと「ヘッドハンティング」されたのです。西側の世界では、ノーベル賞でもとらないかぎり、基礎科学分野でヘッドハントされることなんて、まずないでしょう。本当に人生何が起きるかわかりません。

2013年の秋ごろ、ちょうどウラル連邦大学の研究者(現在の同僚)と進めていた研究が大詰めに差し掛かり「この辺で、一気に論文に仕上げましょう」ということで、1ヶ月ほどウラル連邦大学に滞在していました。

仕事が落ち着いてきた頃「実は、うちの副学長が君に会いたい言っているのだけど」という話があり、特に断る理由もないので会うことにしました。その時に切り出された話が職のオファーだったのです。

実はそのころ、別の研究所とも就職の話を進めており、交渉次第で就職できそうな手応えを感じていたので、正直、話を聞いた瞬間は若干の戸惑いを覚えました。

件の副学長にその話をすると「先方の条件はどのような感じですか?」とさらに聞いてきます。「基本的には准教授相当の職を用意してくれると聞いています」という返事をすると、「では、こちらは教授としてあなたを迎えたいが、どうでしょう?」と対抗条件を出してきました。

その後、細かい経緯はあったのですが、もう一方の職の交渉には時間がかかりそうだったことや、ウラル連邦大学の人たちが非常に熱心に誘ってくれたことなどから、結局ロシアに来ることにしました。

就職後に、いろいろな苦労があったことはこのブログやツイッターでも書いている通りです。とはいえ、今のところロシア来て良かったと思っています。もう一つの職は、有名研究所の職だったので、私が行かなくてもいくらでも代わりはいるでしょう。今になって考えると、自分を必要としてくれるところを選んで正解だったと思います。

ウラル連邦大学でセミナートークする私
(2013年12月撮影)

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2017年12月28日木曜日

【第48回】アメリカン・ドリーム

私が最初の職に就いたのは2002年のこと、最初の職場は米国のイリノイ大学でした。当時イリノイ大学は、BIMAという電波望遠鏡の運営に参加しており、その運営グループの研究員として採用されました。

米国では、秋口に公募が始まり、翌年4月ごろまでに結果が出るのが通常です。しかし、私が応募した時は翌年2月になっても返事がきませんでした。そうこうしているうちに国内の公募にも相次いで落選し徐々に後がなくなってきました。

それで、私は何を思ったのか当時のディレクターに「あなたは私のヒーローです。あなたが1974年に出したあの論文がなければ今の私の研究はありません。是非ともあなたのところで働きたい。一生懸命働くので、どうか採用して下さい」といった内容のメールをたどたどしい英語で書いて送ったのです。

その後、しばらく梨の礫で、結局3月末までに研究職が見つからず、バイト的な職で食いつなぎながら研究を継続していたある夏の日、件のディレクターからメールが着信しました。

メールを開けてみると「応募ありがとう。今年は経験豊富な応募者がおり、その人を採用したためあなたを雇うことはできません」という文が見え、「あー、またかぁ」と思ってメールを閉じそうになりました。

しかし、何かもう一行書いてあったような気がしたので再度メールをよく見てみると、次のような「追伸」がありました。「追伸:追加のメールをありがとう。あなたの意気込みはわかった。ところで今年は余剰の予算があります。職を作ったら来ますか?」

最初よく意味を理解できず、10回位、噛みしめるように文面を読み直したことを今でも覚えています。

日本の公募では、こういうことはまず起きないでしょう。アメリカン・ドリームって実在するのだなと思いました。最近は米国も状況が難しくなってきているようですが、米国にこういうゆとりがなくなっていくとしたら寂しい話です。

BIMAのアンテナの前で、当時イリノイ大学の
大学院生だったダグ・フリーデル君と
(2003年7月撮影)

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2017年12月26日火曜日

【第47回】好奇心、人脈、柔軟性

前回「キャリア支援講演会」についてふれましたが、今回はその時に出たもう一つ別の質問の話をしてみようと思います。その質問というのは「海外で研究職を見つけるために重要なことは何ですか?」というものです。

大前提として研究実績や応募書類の書き方などは当然ながら大切で、それなりの勉強や努力を行って質を高める必要はあります。ただ率直に言って、私は研究業績を高めるだけでは競争の激しい現在の研究職市場で生き残るには不十分であり、もう少し別の観点から自分の能力を見つめ直す必要があると思うのです。

そこで私が考える重要な観点というのは「好奇心、人脈、柔軟性」の3つです。好奇心については、まず研究を継続していく強い動機が必要という意味で重要ですし、研究分野を拡げて可能性を高めていくという観点からも大切だと思います。また、好奇心が強い人は、例え慣れない国に住むことになっても、きっと新しい環境で生活を楽しむことができるでしょう。

それから、就職市場におけるチャンスというものは宝くじのような運任せではなく、必ず人間が運んできてくれるものだと私は考えています。この観点から人脈はとても重要です。人脈を使った研究職への就職活動というと「フェアではない」と言う研究者が時々いるのですが、むしろ人脈と全く無関係な就職活動などというものはほとんど存在しないというのが研究職市場に15年以上関わってきた私の感想です。

そして、最後に一番大切な鍵となる要素が「柔軟性」だと思います。私が過去に見てきた研究者の中には「欧米じゃないと嫌だ」、「英語圏じゃないと嫌だ」、「給料が最低でも◯◯万円ないと嫌だ」というような理由で、せっかく目の前にあるチャンスを捨ててしまった人が何人もいました。しかし、自分にとって多少不本意と思われる状況であっても、一旦受け入れてみると、そこからまた新たなチャンスが開けてくることもあると私は思うのです。

台湾で勤務していた時に住んでいた
台北市内のアパートの窓からみた景色
(2007年8月撮影)

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【第46回】「海外生活で困ったことは?」と聞かれて困った話

今年の秋、出身大学院で「キャリア支援セミナー」という催しがあり、その中で行われたパネルディスカッションにパネラーとして呼んでいただきました。日本国内における研究職への就職が困難を極める昨今、海外で働く卒業生から意見を聞こうというのが企画の趣旨でした。

予想以上に多くの参加者があり、質問も多く出ておもしろい企画だったのですが、最初に出た質問で、いきなり返答に少し困ってしまいました。その質問というのは「海外生活で困ったこと、苦労したことは何ですか?」というものでした。

返答に困った理由の一つは、まずトータルとして、私は海外で働いている方が国内で働いているよりも苦労が少ないと考えていることがあります。もちろん苦労が全くないわけではないのですが、これまでに経験した海外の職場のメリットとデメリットを比べた時、やはりメリットの方が大きいというのが私の印象なのです。

もう一つの理由は、何を苦労と考えるかはその人の状況に依存するということがあります。例えば、外国生活に興味があるかどうか、結婚しているかどうか、というようなことでも苦労の種類や程度は変わってくるでしょう。

海外で働くことの苦労は挙げていけば数限りなくあります。しかし、現在、日本で働く研究者も多くの苦労を抱えいるのではないでしょうか。ただ、一つ言えるのは、日本と海外ではおそらく苦労の種類が異なるということです。したがって、日本の苦労に耐えられない人であっても、海外の苦労にはもしかしたら耐えられるかもしれません(そして、その逆もあるでしょう)。

私の意見としては、海外の研究職を検討するのであれば、予見される苦労についてあまりあれこれ考えるのではなく、とりあえず希望を持って挑戦していただきたいと思います。そうすると、もしかすると良い結果が待っているかもしれません。(そして、多くの場合、良い結果が待っていると私は考えています。)

初めての赴任先、イリノイ大学のキャンパスにて
(2003年4月に撮影)

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2017年12月24日日曜日

【第45回】無機質な建物と観葉植物

私の職場には至るところに鉢植えの観葉植物が並んでいます。中には枝葉が大きく伸びて、まるでジャングルのように生い茂っている場所もあります。この観葉植物は大学が管理しているものではなく、個々の人の好みでおいているようです。

私の職場の建物はソビエト時代、フルシチョフという政治家が最高指導者だったときに建てられました。フルシチョフは質素な建物を好んだようで、その時代に建てられた建物はどれも飾り気がなく殺風景な外観を呈しています。

フルシチョフ時代に建てられた建物をロシアでは「フルシチョフカ」と呼びますが、しばらくロシアに住んでいるとどれがフルシチョフカなのかすぐに見分けられるようになります。

さて、フルシチョフカは基本的に外観も内部も殺風景な造りの建物なのですが、建物を使う人たちはいろいろな創意工夫を施して、案外快適な空間を内部に作り上げています。冒頭に紹介した観葉植物もその工夫の一つです。無機質なフルシチョフカも、室内に植物を置くことによって、少しホッとした雰囲気に変わります。

私が現在住んでいる大学寮は数年前に古いフルシチョフカを取り壊して新築された新しいビルなのですが、とはいっても、どうもデザインにフルシチョフカの伝統が残っているようで、建物は新しいものの、なんとなく殺風景な雰囲気が未だに漂っています。

何か上手い工夫はないものかと考えていたそんな折、サラダで食べたアボカドの種を好奇心で水栽培してみたところ、数個の種のうち一つが見事に育ちました。以降、うちではこのアボカドを観葉植物代わりに部屋の中で育てています。

アボカドの原産地は比較的温暖な地域のようで、流石にエカテリンブルクでは上手く育たないだろうと当初は思っていたのですが、実際に栽培してみると、どうやらセントラルヒーティングが効いた室内がアボカドの生育条件にピッタリ合っているようで順調にスクスクと育っています。

室内で順調に育つアボカド

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2017年12月22日金曜日

【第44回】言い訳と説得にみる気質

特定の国の国民を一括りにして国民性を語ることは大変難しことです。これは、個性による例外が必ず存在するからです。とは言うものの、3年以上エカテリンブルクに住み、それなりの数のロシア人と接してみると、やはり全体として日本人とは異なる気質を感じるのも確かなのです。

例えば、「言い訳」と「説得」という観点に注目すると、私の意見ではロシア人の気質は「言い訳する時は論理的、本気で説得する時は情緒的」と表すことができます。

ロシア人はとにかく徹底的に言い訳します。彼らの言い訳は論理的で、言い訳のためには持てる知識を総動員します。決して「言い訳しないで黙っている」なんてことはありません。

人を説得するときにも気質が表れます。ロシア人は、本気で誰かを説得する時は情緒的に振る舞うことが多いです。例えば、私が若いロシア人からある賃金支払いについての交渉を持ちかけられた時、彼が私に対して行った説得は「今の賃金では最近生まれた子供に与えるパンやミルクも満足に買えない。なんとかしてくれないか?」というかなり感情的なものでした。

逆に、ロシア人を説得するときには、法律や規則を理由とした話はあまり効果がありません。「規則でこのように決まっている」と言っても、「何を神経質なことを言っているんだ」と反応が返ってくることがしばしばです。しかし「本当に困っているんだ。なんとか助けてくれよ!」と興奮しながら訴えたら、あっけなく問題が解決することもあるのです。

ただし、もう一度強調しておきたいのですが、国民性というものは、個人の付き合いでは個性に比べると無視できるような話です。いざロシア人と仕事などで付き合うことになった場合は、あまり最初から違いを意識せず、人と人としてニュートラルな気持ちで接することを私はおすすめします。

太陽が低い冬至一日前のエカテリンブルク市内
(撮影時間:午後12時10分)

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2017年12月21日木曜日

【第43回】寒い冬とアイスクリーム

本格的な冬になってからというもの、数日おきくらいのペースで夕食後にアイスクリームを食べています。「おいおい、なぜ冬のさなかにアイスクリームなんぞ食べるのだ」と思われる向きもあるかもしれませんが、エカテリンブルクでは冬にアイスクリームを食べると美味しいのです。

アイスクリームが食べたくなる原因は、おそらく特徴的な「暖房」にあると思われます。エカテリンブルク市内の暖房は郊外の発電所から送られてくる熱湯で建物ごと温める形式、いわゆる「セントラルヒーティング」です。

この方式の暖房は、秋口に一旦が始まると次の春に停止するまで24時間稼働しっぱなしです。トイレや風呂場まで建物の隅々まで暖めてくれるので、快適に生活できる一方、設定温度が高く、時折暖かいを通り越して暑さを感じることもあります。さらに冬場は空気が乾燥することもあり、高温で乾燥した室内にいると、飲み物が欲しくなったりアイスクリームが食べたくなったりするわけです。

このような状況なので、市内のスーパーでは寒くなってからも多くのアイスクリームが売られています。ロシアのアイスクリームは、日本のアイスクリームと比べると派手さはありませんが、素朴な味わいでなかなか美味しいです。

フレーバー的にはバニラ味とチョコレート味が中心で、マンゴー味などのフルーツ系の商品も最近少し出回りはじめました。ミルク系のアイスクリームは、乳脂肪分が少なめで比較的あっさりしています。あっさり系のバニラアイスは暖房で乾燥した室内の空気と相性が良いように思われます。

ロシアの乳脂肪少なめのアイスクリームはソ連時代からほぼ同じ味のようで、プーチン大統領もこの味のアイスクリームが好物だという話を聞いたことがあります。冬場、ロシアに来られることがあったら、ロシアの冬の風物詩「室内でのアイスクリーム」をぜひお試しください。外で食べると震え上がりますので、ご注意を。

近所のスーパーで購入した最近お気に入りのアイスクリーム

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2017年12月20日水曜日

【第42回】同僚たちのソ連時代に対する思い

今年はロシア革命100周年の年でしたが、ロシア革命とともに始まったソビエト社会主義共和国連邦、いわゆるソ連も1991年に崩壊し、今私の職場に通うロシア人の若い学生たちは、だれもリアルタイムではソ連を知らない世代になっています。

年輩のロシア人同僚など、ソ連時代に教育を受けてきた世代の人たちにソ連の印象を聞くとその意見は複雑かつ様々です。ソ連に対して好意的な意見を持っている人もいれば、非常に否定的な人もいます。

私の職場は大学なので、ソ連の高等教育に関する意見はよく耳にします。概ね高等教育に関しては、ソ連時代を高く評価している人が多いように感じます。実際、ソ連時代には多くのノーベル賞受賞者やフィールズ賞受賞者を排出していたわけですから、彼らの評価もそれなりに説得力があるように思われます。

私は専門上、ソ連時代の物理学の基礎教育について話を聞く機会が多いのですが、私が聞いた話では、ソ連時代の教育課程では、学習の到達度が細かく設定されており、学生は学習の到達度に応じて国から報奨金を得ていたようです。ソビエト時代に作られた物理学のテキストは、非常に水準が高いことが西側諸国でもよく知られていますが、きめ細かく設定された報酬システムも学生の勉強を促進していたように思われます。

しかし、高等教育から離れた話題では、多くの否定的な意見も耳にします。例えば、同僚の奥さんから「私は子供の頃に人形の一つも買ってもらえなかった。大人になってからも、化粧品一つ、まともなものは手に入らなかった。あんな時代にはもう二度と戻りたくない」という話を聞いたことがあります。

ソ連に対する意見は、世代間でも異なりますし、所得によっても異なるようです。単純に古い世代のみがソ連時代を懐かしんでいるのであれば、将来予測も簡単なのでしょうが、若い世代でも懐古的な考えを持つ人もいるようで問題はなかなか複雑です。

取り壊すか保存するかで意見が別れている
ソ連時代に建てられた電波塔。

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2017年12月19日火曜日

【第41回】連邦大学職員の年末年始

12月も中盤を過ぎ、そろそろ年末年始のお休みの時期が近づいてきました。ロシア政府が定める公的機関の正式な休暇期間は年によって若干異なるのですが、今年は12月30日から1月8日までの10連休と発表されています。

この様に書くと、おそらく日本の皆さんは、ロシア国民のほぼ全員が12月30日から一斉に休みに入って、年明け1月9日から一斉に仕事を再開するような状況を想像されるかもしれません。しかし、実際の状況はそれとは大きく異なります。

私の職場では、12月中旬を過ぎると徐々に「お休みの雰囲気」が漂い始めます。例えば、誰かがちょっとした料理とワインを職場に持ってきて、軽く一杯ひっかけながら仕事をするなどの状況が発生します。そして20日を過ぎると少しずつ職場から人が減っていきます。最終的に27-28日ぐらいにはほぼ職場には人がいなくなります。

厳密なことを言うと、年内はカレンダー通りに出勤する必要があるはずですが、きっちり働く人は誰もいません。フライングで数日早めに休暇を始ることは最早慣例となっています。

年明けも状況は似ており、公式の休暇期間が終わった途端に出勤する人はまずいません。今年の場合、1月8日の月曜日に休暇期間が終了するので、その後の4日間ある平日は(勝手に)休んでしまう人がほとんどのはずです。職場がフルに動き出すのは翌週月曜日の1月15日くらいからになるでしょう。うちの大学では講義が再開されるのは1月末ごろからなので、それほど大慌てで新年に仕事を再開する必要はないのです。

日本のことを考えるとかなり悠長にも思えるかもしれませんが、私のロシア人同僚たちは「仕事とは人生を楽しむためのものであって、仕事で自分の時間を埋め尽くすなんてもっての外だ」とばかりに、年末年始はしっかり休み、パーティ、スポーツ、勉強、旅行、その他の趣味など、目一杯人生を楽しんでいるように感じられます。

電飾が綺麗な年末のエカテリンブルク
(通勤路にて撮影)

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2017年12月17日日曜日

【第40回】天文学者は夜空を見上げるのか

昨夜、ask.fmという質問系SNSで「実際の話、夜空って見ますか?」という質問をいただきました。実はこの質問、天文学者をやっているとときどき聞かれます。おそらくその裏には「天文学者は、さぞや多くの晩、夜空を眺めているに違いない」という推測が入っているように思います。

正直に言うと、私の場合、仕事で夜空を見上げることはほとんどありません。観測に出かけた時には、天候の確認ついでに夜空を見上げることはありますが、観測に出かけること自体が実はそれほど多くないのです。今まで一番多く観測した年でも、日数にすると年間で3週間程度です。少ない年だと1週間も観測しません。また、最近は天文台には行かずデータだけもらう場合も多いので、ますます自分で観測する機会は減っています。

とはいうものの、天文学者も基本的には宇宙や天体に興味がある人間なので、星空を嫌っているという訳ではありません。理論物理学者のリチャード・ファインマンは、友人の画家に「科学者は花を見ると、細胞や遺伝子については語るが、花そのものの美しさを理解していない」と言われた時に、「それは全く違う。科学者も人間であり、人間である以上、あなたと同じように花の美しさは当然理解できる。そして、科学者はあなたたちが理解していないより深い花の美しさも知っているのだ」と答えたという有名なエピソードがあります。

私は同じことが天文学者にも言えるのではないかと思っています。天文学者は肉眼で見る以上の宇宙の美しさや面白さに日々触れているため、肉眼で夜空をみることに比較的興味が薄いのかもしれません。ただ、そう言う私ですが、日食や流星群の時には外に出て、純粋な好奇心で空を見上げることもあります。

ウラル連邦大学天文台から見える星空

関連リンク

写真の引用元:http://astro.ins.urfu.ru/kourovka/excursion

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【第39回】ロシアの伝統的なお菓子 ハルヴァ

今日は「ハルヴァ」というロシアのお菓子をお茶うけとしていただきました。ハルヴァは、ヒマワリの種の粉に砂糖や油脂などを混ぜて突き固めたロシアの伝統的なお菓子で、四角い煉瓦のような形をしています。色合いはグレーっぽい感じで、お世辞にも美味しそうな見た目とは言えません。しかし、味はなかなかの美味です。

例えて言うと、きなこに砂糖をまぶしたような味で、和菓子を思わせる素朴な風味があります。それだけに、緑茶との相性は抜群です。私はハルヴァを食べる時は日本から持参した緑茶を濃い目に入れて一緒に頂きます。

ロシアでもハルヴァ好きは多いようで、私の同僚のD君も「一番好きなお菓子は子供の頃からハルヴァだ」と言っています。ただし、ハルヴァは粉状の甘いお菓子なので、食べるときに歯の隙間に入り込み虫歯の原因になりやすく、ロシアでは子供には与えないという家庭も多いようです。

このハルヴァ、ロシア以外にもユーラシア大陸の広い範囲で食べられています。ロシアのハルヴァはヒマワリの種から作られますが、他の国ではゴマやその他の穀物から作られる場合もあるようです。

昔ながらのハルヴァは、食べやすさの点ではあまり優れた食品ではありません。通常、ナイフで薄く切って食べるのですが、切る時にどうしてもボロボロに壊れてしまいます。しかし、最近は、チョコレートのコーティングを施してバー状に加工されてハルヴァなども出回っており、食べやすさが改善されています。今日食べたハルヴァはバータイプのものでした。

ハルヴァには旬があり、その年に新しく収穫されたヒマワリの種が市場に出回る初秋から晩秋のものが一番美味しいとされています。みなさんも、もしロシアに来られる機会があったら、ロシアのハルヴァを是非味わってみて下さい。

チョココーティンぐされたハルヴァ

チョココーティングされたもハルヴァのパッケージ