2018年1月14日日曜日

【第50回】孤独になれる時間にみる文化の違い

研究者にとって「孤独になれる時間」というのはとても大切です。誰にも邪魔されず一人でじっくりと思索にふける時間がないと新しいアイデアを見つけることも、見つけたアイデアを深めることも容易ではありません。一人になれる時間を十分に確保できるかどうかは研究者が職場を選択する時に考慮するべき大切な要素の一つだと私は考えています。

私が初めて研究者として職を得たアメリカの大学では、若手の研究員であっても、一人になれる時間を十分に確保することができました。必ず参加しなくてはいけない会議は1ヶ月に一回程度でしたし、それ以外の時間は、必要に応じて必要な人と都合の良い時間に会って議論をするという形で研究することができました。

また、仕事する場所も柔軟に選ぶことができ、集中して考え事をしたり原稿を書いたりしたい時は、オフィスに行かずに自宅にこもったり、図書館やカフェで仕事をすることも可能でした。この辺の状況はロシアでも似ています。アカデミックスタッフに関しては、1-2週間程度であれば連絡なしに職場に顔を出さなくても、うるさく言う人は誰もいません。

一方、アジアで仕事していた時は、かなり意識的に時間をやりくりしないと一人になれる時間を捻出することが難しかったように思います。私は院生時代を日本の研究所で、二回目のポスドク時代を台湾で過ごしましたが、これらの研究所では連絡なしに何日もオフィスに顔を出さないことは不可能でしたし、かなり意識して断らないと毎日のように会議やセミナーが入り、下手すると毎日数時間を会議室で過ごすことになります。

現在の形体の科学が、もともと西洋文化の中で生まれたことを考えると、アメリカやロシアといった日本よりもより強く西洋からの影響を受けてきた国では、何が科学者にとって重要なのか、アジアの国よりも、より深く理解しているのではないかと思ったりします。

新年の電飾がほどこされたウラル連邦大学本館
(2018年1月撮影)

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